200423 生産技術エンジニアの海外駐在生活 ~その4~

※このテーマで数回に分けて駐在員時代の生活について紹介します。
当時、私が勤めていたモーレツ会社を簡単に紹介すると「ケチなブラック企業」でした。私はアメリカ国境沿いのメキシコ工場で勤務していました。参考になるかわかりませんが、生産技術エンジニアが海外駐在でどういう生活をしていたのかイメージできればと考えています。

夜勤対応した話

私は駐在時代に何度か夜勤対応をしました。
工場に新規ラインを導入するときは生産量が少なく、1シフト体制から始まります。徐々に生産数が増えると、2シフト、3シフトと増えて24時間での稼働体制になります。そのシフトでもカバーできなくなると、週末の土日のみの専用シフト(4シフト)ができます。 日本や中国と違って、メキシコではシフトのローテーションはありませんでした。昼勤のシフト勤務者は毎週昼勤で、夜勤のシフト勤務者は毎週夜勤の勤務です。週末は専用の人員を採用しているため、1シフト12時間での2日間のみ稼働というシフトでした。つまり4つのシフトは常に同じ時間帯で同じメンバーなのです。

生産開始初期の頃は1シフト分だけをカバーしていればよいのですが、その教育した1シフト分のメンバーが他のシフトに流れないために、誰かが他のシフトに回らないといけないのです。本来はすべて製造部に任せるべき仕事ですが、体制が弱いせいでそう簡単に任すことができないのです。シフトが増えるたびに素人集団が生産ラインに配置されます。これは製造ラインの作業員だけでなく、設備のメンテナンスメンバーやライン責任者も含みます。生産ラインの管理もできず、設備故障も直せず、正しい品質判断もできないような状態です。翌朝に大量の不良と破壊された設備が現場に残されています。場合によっては、昨夜生産した製品の選別作業をすることもありました。

誰が悪いということではないのですが、全体のレベルが低すぎるのです。事前教育も不足していて、品質判断もできない状態で生産だけ任され、設備の操作や復旧方法も学んでいない人物が良かれと思って余計なことをしたおかげで設備を壊してしまうのです。組織を正常に運営しようと思えば、少なくとも4割はまともな人間が集まらないと無理なのです。当時は1割以下だった気がします。

そんな状況だったので、私が自主的に各シフトをスパルタ教育することにしました。本来の私がやるべき仕事ではないのですが、安定稼働しないことには本来の私の仕事が進まなかったのです。そして、早めに手を打っておかなくては問題がさらに大きくなることが目に見えていたのです。
第2シフトが始まるときは昼過ぎに会社に来て深夜まで会社にいる生活をしていました。第3シフトが始まるときは、夜中に会社に来て朝方まで会社にいる生活をしていました。第4シフトが始まるときは、土日の両方ともシフトが終わるまで会社にいて、代わりに平日どこかで1日休暇を取っていました。
いずれのシフトでも基本的には現場に付きっきりです。変な作業をしたり、変な不良が出ていないか監視しつつ、設備で問題があれば教育しながら復旧させるというやり方です。シフトが始まって安定稼働できるまで、それぞれ1ヶ月はこんな生活をしていました。特に夜勤は監視の目が少ないため、無管理になりがちでした。24時間体制になった後でも、夜勤の生産性が悪化したり、夜勤の不良廃却が増えると、私が抜き打ちで一定期間夜勤の監視をしたこともあります。

夜勤で働くなどは学生のバイト以来でした。私には何の手当ても出るわけでもなく、自主的にやっていました。こんな治安の悪い場所で夜出かけるのことを少し躊躇したことを覚えています。私が夜勤をやっている分には、夜中に呼び出しを受けて会社に行くことはないので、夜自宅にいるときに煩わされることはなくなりましたが。。。


(つづく)

生産技術エンジニアの海外駐在生活 ~その3~



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